エラーの概念には、非難する相手を見つけることを伴う。
残酷な話だけどデザインというクリエイティブには責任が存在して、
デザイナーはインターフェースを崩壊させることで大災害を引き起こし、情報を正しく伝達できないことで大混乱を引き起こす大犯罪者になりえることもある。
人間は意図的に間違えようとすることはありえないし、自ら怪我をしようとも思わない。
だからエラーは、それを作った側の無責任な行為となってしまう ── というのが、ドナルド・ノーマン先生の教え。
人工物と生活するという慣習。
人工物をデザインするという慣習。
現代の情報世界では、デザインは排他的な技術ではなく、日常生活の出来事として誰にでもそれを可能にしていると考えられる。デザインはデザイナーの持つ技術ではなく、使う側が内部に持つ世界というか。
デザイナーは能力において他者より独占的な特権を持っているのではなく、デザイン能力は「使う側(ユーザー)」に与えられていて、その構築を委託されて請け負っているという図式さえも成り立っているように思う。
・・・そう思うと、なんか面白くない。
いや、世のため他人のためにという図式は非常に優しく包み込むようで、歌のように美しくあるのではあるのだけど、個人的に、単純に面白くない。なんか違う。
なんていうか・・・それ僕だけが面白くなくね? という感じなのです。
国際標準化機構(ISO)では、人間中心性を正当に評価していない(人間中心設計プロセスを規格化する人間工学の伝統に由来している)。
ユーザビリティを定義する数少ない ISO 9241-11 では、目的や行為などが非常に限定された環境下で確立されています。けっこう大雑把というか。
< 安全に故障しろ!
< 困る前に助けろ!
< 俺がミスしたら何事もなかったことにしろ!
こんなかんじ。
「ゆとり」っぽい・・・けど、こここまで正確でシャープなユーザーなら逆に好感持つけど。
それにしても、はまにゃごキャラって、こういうセリフに便利だな。
まぁミスを許容して且つ、フォローを先に仕込んでおくという感じになるのですが。
「安全に故障しろ」とか、なんか世の中のすべてを見通した達観した言葉のようで、素敵に思えてきた。
でも把握できるのは、人間が誰かを嫌っている時、相手も間違いなく自分のことを嫌っているということ。
コミュニケーションという双方向通信という規格に、俺のせいじゃないお前のせい、という一方通行の憎悪はあり得ないのです。
たぶん僕が面白くないと思えば、相手も面白くない。
デザイン能力がユーザー側にあるというのなら、デザイナーはヒアリングによってその全てを引き出し、面白おかしく背中を押すということが必要なのかな、とも思う。
その時には、エラーさえも笑顔で許されるような、最高のプロダクトが両者の間にあるような気がする。
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