世界の終わりのものがたり


「もうすぐ死ぬ」と宣告されたら? あるいは交通事故による予期せぬ終わり。
不老不死になりたい? でも「生きている」ってどういうことなの。
変化するのか、維持するのか。「誰と」「いつまで」? どちらがいいの。
そもそも「世界の終わり」って何を意味するのか。自分が死ぬこと? 宇宙の滅亡? 自分の大事な人や物事が?
── あなたなら、この問いに、どう答えるのか。
企画展「世界の終わりのものがたり~もはや逃れられない73の問い」を観に、東京・日本科学未来館まで行ってきました。
■世界の終わりのものがたり~もはや逃れられない73の問い(特設サイト・公式)
http://www.miraikan.jp/sekainoowari/
この企画展は、さまざまな「終わり」を科学の視点とともに提示、科学技術の役割をあらためて問いながら、終わりから始まるものがたりを見出すという参加型ともいえる企画展です。
企画展会場の中を歩いて巡ると、人の人生から宇宙の終わりまで、あらゆるものの終わりをめぐる「問い」が次々に現れます。そこで自分と対話しつつ答えを探したり、回答を書き入れたり、他の人の回答を見たり、友人や家族と意見を交わしたり。
どちらかという科学の話というよりは、もうちょっとマインドに近い、哲学的な内容でした。
それでも生と死、生命について考えること、地球なんかの環境、テクノロジーを考えることは、「未来」という集約されたひとつのテーマを考える上ではブレていない内容だと思います。

未来。
遠いようで、近いようで。
それは生きていく上で隣り合わせにあるような「死」のように漠然として確実にあるもので、ただしかし正解はだれにも分からず、ただし悠久の時の流れの先にその答えがあるもので。
限りある世界と時間のなかで、自分自身が大切にしたいものは何なのか、そしてどんな未来をつくりたいのか。
会場で過ごす時間の先に、そんな自分自身の希望のものがたりが浮かびあがってくるのでしょうか。

すべてのものごとには「終わり」があります。人の一生も、自然も、文明も、そしてこの宇宙でさえも。にもかかわらず、私たちは忙しい毎日の中で、あまり「終わり」を意識せずに過ごしてきました。
2011年3月に発生した東日本大震災は、平和で穏やかな生活が一変する可能性があることを私たちに思い知らせました。科学技術に支えられた私たちの生活が、こんなにも危うく、脆いということも突きつけました。
震災から一年を経た今春、「終わり」という必然を踏まえた上で、何を大切に生きていくべきか、科学技術とどうつきあっていくかといった問題をあらためて考え、一人ひとりが自分なりの答えを持つべきではないでしょうか。本展は、これらの本質的な問題に正面から向き合う機会となる展覧会です。
会場に入ると、「終わり」をさまざまな観点から捉えた「問い」が次々にあらわれます。回答へのヒントとなる科学トピックを見ながら、問いについて自己対話をしたり、友人や家族と語り合ったり、他の人の回答をのぞきこんだり、ハンズオン展示で直に触ったり、マグネットによる回答に参加して他人と答えを共有したり。そうして73の「問い」に答え終えたとき、自分にとって大切なことが、くっきりと立ちあらわれることでしょう。
「終わり」を知ったうえで、それでも続いていく”生”への希望を見出していく。この展覧会で、「終わり」から始まる新たな希望のものがたりが生まれることを願っています。(パンフレットより)

クリエイターの悪い癖だと思うのですが、企画とか仕掛けたの誰だ? と、そのテイストから推理しようとしてしまうのですが、この企画展は同館のスタッフたちを中心に2年以上の歳月をかけて構想から創りあげたものらしい。
「問い」はシンプルなテキストだが、そのヒントとなる展示物のクオリティは高く、各分野の研究者に取材し集めた資料とのこと。
ディスプレイや制作・空間デザインに関しては、乃村工藝社が入ってるみたい。
ちなみに写真は撮影しちゃいけないものだと思いこんでて、撮ってこなかった・・・。
自分的にとても残念。だけど、もう1回くらい、行ってこようかな。

さて、会場内は、4つのセクションに分かれています。
  (1)予期せぬ終わり。
  (2)わたしの終わり。
  (3)文化の終わり。
  (4)ものがたりの終わり。
会場をめぐりながらシンプルな問いに対し、即答で答えようと思っても、答えはなかなか出てこない。
理由は明白で「普段からそんなこと考えてなく明解なテキストでの答えの準備が無いから」。
改めて「生きる」ってなんだろう、自分の人生ってなんなのかと考えさせられる。
僕らはもっと、自分自身が持っている人生という自分自身と、前向きに対話しないといけない。
自分自身を決めるのは自分自身で、ゆりかごの中のように安寧なものではないのだから。

予期せぬ終わり

スタートしてすぐは、自分たちの周囲にある様々な危機に対する問い。人は災害・病気・事故など、様々なリスクに囲まれて生活している。
 「世界で一番安全な場所はどこでしょう?」
 「どんな病気になるか、あらかじめ分かるとしたら、知りたいですか?」
 「最後の一瞬、なにを思い浮かべると思いますか?」
生きるということのために選択しているリスクと、そのリスクを選択している理由。
そこには、そのリスクが持つ「利益」があるからだと考えられる。
そのリスクから得られる利益を得ているから、その選択があるのだ。
ここではリスクという利益に対する「態度」という、自分自身の対処の仕方が問われる。
人間は普段の態度で、リスクに対する付き合い方がわかりますね。

わたしの終わり

次は生物が持つ宿命「いのちの終わり」。
でも「わたし」の終わりってなんだろう。
 「終わらないガムって、どうですか?」
 「永遠の生を手に入れることができたら欲しいですか?」
 「どこまで『わたし』なのでしょう?」
好きなものを好きなだけ手に入れられる世界。
好きな食べ物をずっと食べ続けられる。永遠は幸福なのか。
医療技術が発達し、生きるという概念も、生と死の境界線も揺らいでいる。脳死、終末期医療。
メガネや洋服、私物の文房具。長い時間を一緒に過ごすそれらは手や足のように自分自身の一部と考えられる。自分自身を投影したもの。例えば僕ならオレンジの小物?
そんなアイデンティティを紐解けば、僕らは外部から切り離された個体として完結した存在とはいえない。世界においてスタンドアローンの人間はいない。無数の関係性の中で成り立っている。

文化の終わり

価値ある生というテーマを得た僕らは、社会の中で他人に与える影響について考えつつ、そのアクションを求められる。
未来につなぐものは何なのか。
 「テクノロジーの進化よって消えたものはありますか?」
 「変化すること、持続することは共存できますか?」
地球の温暖化を解決する効果があると言われているジオエンジニアリングの1つとして、成層圏に硫酸エアロゾルを注入し、人工的に雲を発生させて気温を下げる技術がある。そしてその発射ボタンが展示物の中に、実際に目の前にある。目の前のスクリーンには青く広がる青空と、エアロゾルを搭載したミサイルと発射基地の姿が見える。
でもこの硫酸エアロゾル、青空を重い雲で閉ざし太陽光を地表に届かなくさせる危険性も持っている。当然人類は滅亡する。その真偽は今の科学力では解明できていない。
さぁ、目の前に発射ボタンがある。
 「それでも使いますか」
46億年スケールの歴史の中で、人類は激動の変化を体験し具現化してきたが、果たしてテクノロジーは必要だったのか、という問い。自然は神なのか悪魔なのか。
あ、僕はボタンがあったら押してみる派だったので連打してみましたが、飛んでいったミサイルから散布された硫酸エアロゾルで発生した暗雲によって地表は闇に覆われ、人類滅亡エンドでした。世界中のみんなゴメン。

ものがたりの終わり

最後は、自分を取り巻く世界や文化など、客観的にものごとを見てきた自分自身が「今ここにいる自分自身にとっての世界の終わり」を考える。
 「あなたにとっての世界の終わりとは、なにが終わることなのでしょうか?」
 「大切ななにかを失ったとして、本当にそれが『終わり』でしょうか?」
 「『終わり』から、あなたが始めるものはなんでしょうか」
生まれてから今まで、そして死ぬまで。僕らは過去から現代にいたるまで、無数の終わりの上に存在していた。
僕たちの生活は、終わりと始まりの上に成り立っている。
世界の終わりの「世界」って、僕は実際にどのあたりまでを考えていたのだろう。
自分の大切な人は、どんな終わりを望んでいるのだろう。
世界をいかに終わらせ、いかに持続させるか。
「終わり」に、抗うのか。
そんな問いかけに対する答えは、未来に対する答えのようで、実は自分自身の5秒後に対する決断であったことに気付く。

展示の中で、「終わらないナポリタン」というものがあり、ひたすらナポリタンを食べ続ける男の映像があった。
好きな食べ物を一生食べ続けることは幸福かという問い。
おそらく大半の人が「No」という答えを出すと思うが、その変化を望む答えは永遠の命という概念を否定することでもある。
そして今日も、大勢の人類が「夕飯のメニュー何にしよう」という迷路に迷い込み答えが出せない。
ところで併設されたレストランでは、この「終わらないナポリタン」が実際にメニューにある。
さすがに物理的に永遠に減らないのは無理なので「おかわり自由」という意味だけど。
このナポリタンは、かなり人気メニューになっていた。
このへんの商売っ気があるからこそ、クリエイティブという分野は面白い。
 

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